摂末社タイトル

生島周辺の地名

生島辨財天社の写真

生島神社は生島4ヶ村(上ノ島・栗山・大西・三反田)の氏神で旧栗山村集落の西に位置していました。 『尼崎の地名』にそれぞれの集落についての記述があります。

上之島(かみのしま)

弥生時代の遺跡がある。上之島・栗山・大西・三反田の四カ村はもと一村で、生島村と称していたが、尼崎藩戸田氏の時代に四村に分かれた。生島は早くも天長七年(八三◯)に生島勅旨田として『日本逸史』に見え、建長二年(一二五◯)の九条家文書には同家の荘園として生島庄がしばしば登場する。江戸時代は尼崎藩領で、寛文九年(一六六九)の上之島村の村高は五◯二石九斗八升八合。生島庄のうちの上の村であったことから上之島と称したのであろうか。戦国の地侍上島氏(近世大名中川氏の上級家臣や鬼貫の先祖)はここが本貫の地であるとされている。

栗山(くりやま)

もとは生島村の一部。地侍栗山氏の名からきたのだろうか。ヤソ会の宣教師ルイス・フロイスが一五六八年(永禄十一)の書翰のなかで説教におもむいたと述べている。Curiamaはここで、そこに登場する信徒の武士一族は栗山氏である。江戸時代には尼崎藩領で、寛文九年の村高は四九四石一升七合。

大西(おおにし)

もと生島村の一部。人名に由来するのではないかと思われるが、手がかりがない。史料上の初見は慶長十年の「摂津国絵図」である。江戸時代は尼崎藩領で、寛文九年の村高は三五八石一斗六升六合。

三反田(さんたんだ)

もとは条里制による三反の田からきたのであろう。中世には浜郷の一部で、興福寺=春日社領であったとみられる。資料上の初見は慶長十年の「摂津国絵図」で生嶋村三段田と記されている。尼崎藩領で、寛文九年の村高は六九六石一斗九升二合。