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尼崎・立花地区の生島社

生島辨財天社の写真 子供の守護神、安産の神の写真

立花地区の上ノ島・栗山・大西・三反田の各町は、昔は生島と呼ばれていた所です。

この地は、天長7年(830)に朝廷の財力によって開発され、平安時代の終わりごろ、康治元年(1142)に開発領主源実国の子孫が、時の関白藤原忠通に寄進した「生島荘」に当ります。

同じころ、僧澄海が大般若経を「生島大明神」に献じたとあり、生島社の文献上初見といえます。
 平安時代の神社を知る「延喜式名帳」には、大阪市天王寺区にある生国魂社は「生島巫祭二座……生島神・足島神」を祭っています。

生島神社はこの大阪生国魂社の元宮の伝承があり、生島庄の鎮守としてこの二神を祭る共に、摂関家の氏神である春日神社の諸神を祭ったものと思われます。

同庄の中心は、生島村と呼ばれていた三反田町から次第に開発が北部へ延びるにつれて、大西・栗山両町へ移り、桃山時代の慶長5年には池田輝政・福島政則禁制が「いく島」に出され(現在栗山の旧家に保存)、同19年に出された松平利隆禁制とともに村切り(4村分割)前の生島庄の中心がここ栗山に移ったことと関係深いものです。

尼崎市教育委員会