摂末社タイトル

生島神社の歴史と社格

生島辨財天社の写真

尼崎は、神社の沢山あるまちです。生島神社の歴史を紐解いてみます。
もともと生島神社の所在地は、昭和17年に尼崎市に編入されるまで、立花村にありました。
立花村役場が昭和9年に発行した『立花志稿』の神社篇によりますと、

『神社篇
郷社生島神社

栗山に在り。所謂生島四村即現在の立花村上之島、高松、栗山、大西、三反田の産土神にして、往古より生島神を祭ると伝へられ、祭祀の時代不明なるも此地方に於ては、大阪生魂神社より其創祠古しとの伝を信ぜられ居りて、現在の社殿は大正四年の改築に係り、社殿は現在祠後の辨在天祠となれるもの之れなり、兵庫県神社志に
郷社生島神社
鎮座地 立花村栗山字屋敷田
(摂津志)在栗山村
祭神 伊邪那岐命、天照大神、市杵島姫命、須佐男命、伊弉鮸冉尊
由緒 創立年月不詳にして明治六年八月郷社に列せらる
(摂津志)生島祠相伝此地嘗為生島神祭田故有此祠
(神社明細帳)同村ノ内栗山村無格社市杵島姫神社を合祀大正三年六月十七日、同村ノ内上ノ島村村社須佐男神社ヲ合祀大正三年七月一日、同村ノ内大西村村社熊野神社を合祀大正四年十二月九日
(神饌幣串料供進神社指定年月)大正六年二月六日
境内 九百四十坪官有地
◉造物 本殿 胴葺流造一坪五合
    拝殿 瓦葺入母屋造二十一坪
    境内神社 八幡神社(應神天皇)
    祭日 夏祭七月二十二日 例祭十月十五日
    氏子 三百戸
とありて、元三反田に在りし八幡神社合祀のことを遺せるも其概要を記述せり。本社は維新前迄は生島辨在天の称を以て知られ、宮寺として生島寺を存し所謂神仏混合にして社像により、其祭祀を掌どり來たり、現在祠後の辨在天祠内に辨在天女像、毘沙門天像地藏菩薩を安置し、祠前の大師堂には、弘法大師像不動尊像寺を安置しありて何れも当時の遺物たるなり。両本社及生島寺に関する縁起一巻及古経文の一部並に胴馨其他の関係文書は、同村栗山五左衞門氏の家に現在所蔵せられ居るを以て、之れを順次左に抄録して参考となす。』

とあります。
この文章からもわかりますように、生島神社は、非常に歴史が古く、一説では、4世紀仁徳天皇の御代に創祀されたといわれています。

この立花志稿には、『生島の宮座』という生島4ヶ村に伝わる興味深い宮座の制度や、現在生島神社に合祀されている熊野神社の『管の神事』という農作物の吉凶を占う神事など生島神社にまつわる記述が数多く見られます。これらの記述を見ますと、生島神社が近隣の人々と大変深い絆で結ばれ、深く崇敬されてきたことがよく分かります。

現在の社殿は、昭和50年に新造されたもので、文中の『造物』に書かれた社殿は旧社殿について書かれています。

また、この文章中、『郷社』というのは、当時の神社の社格のことであり、尼崎郷土史研究会が昭和57年に発行した『尼崎の神社』によりますと、

『尼崎市内の神社は、現在六六社を数える。そのうち旧県社は一社、旧郷社は二社、旧村社は五八社、旧無格社は二社…』とあります。生島神社はこの旧郷社の二社のうちの一社です。